
高山祭の起原と変遷

高山盆地を取り囲む山やまの雪がとけて、ところどころに地肌をみせる4月、飛騨路は陽春を迎える。長い冬籠りから開放されて耳をすますと、村の鎮守からまつり太鼓が聞えてくる。青空にそびえている幟も風にはためき、”ひだびと”の喜びを象徴しているようである。中でも4月14、15両日の山王まつり(日枝神社)が最も大きく、氏子だけではなく近郷近在はもちろん、全国から多くの人びとが集まってくる。
酷暑の候を過ぎて秋風が吹きはじめると、”ひだびと”は越冬の準備をしなければならない。それを教えてくれるのは10月9、10両日の八幡まつり(桜山八幡宮)である。山王まつりと同様に遠近の客で賑わい、この春秋の2大まつりを総称して高山まつりという。
高山まつりの起原がいつかということは、はっきりわからない。しかし、飛騨の領国大名であった金森氏が、天正14年(1586)に飛騨に入国して、元禄5年(1692)に転封するまでの間であったことはまちがいない。
すなわち、元禄5年(1692)8月29日、板坂平内より加賀藩士永井織部に宛てた書簡に、「3年1度3月時分山王祭御座候」としるし、「右私家来野崎弥兵衛、40ヶ年以前五、六年飛騨高山に罷在候付、口上覚書如此御座候」とある。
元禄5年より40年以前といえば承応元年(1652)で、将軍は4代家綱、高山城主は4代頼直の時代であった。このころ既に3年に1度ずつ山王祭礼のあったことがわかるが、その他の神社の記事はなく、山王(日枝神社)だけをしるしている。高山城の山つづきに鎮座し、氏子である川原町に住む扶持人によって神輿をかついで高山城に入ったと記録もあり当時の祭は領主の祭であったと思われる。
そのころの村方では湯花祭が毎年行なわれていたから高山の町のいくつかの宮で民衆の祭もあったのであろう。

高山まつりが日本の三大美祭の一つとして喧伝(けんでん)せられるのは、動く陽明門といわれる屋台があるためである。荘厳で華麗、絢爛で豪華、それに幽玄と哀愁がほどよく融合した屋台は、伝統美と工芸美が一如となったものである。
その母体をなすものは、桃山時代の豪華な建築と美術工芸、それに江戸初期の日光大造営に見る新興技術などの響、感化が飛騨の匠(たくみ)の技量によってさらに高められて、一大絵巻物となる屋台芸術がここに花ひらくのである。
それでは屋台はいつごろできたかというと、記録の上では天領となってからの正徳6年(享保元年)山王祭も八幡祭も行列を整えて陣屋の前に行き代官に伺候して氏子に帰り祭を行なっている。この時以後町衆の祭となったのであろう。屋台を曳いた記録はその翌々年享保3年(1718)高山陣屋の地役人、上村木曽右衛門が書いた「高山八幡祭礼行列」があり、それによれば「だし1本、笠鉾七五三、国センヤの2本、屋だい、高砂、猩々、湯ノ花、浮嶋太夫夫婦の4台を曳いている、これは江戸の天下祭といわれた赤坂山王、神田明神祭を模したものである。
その後江戸では亭保6年に屋台は禁止されて屋台は消えたが、高山では笠鉾、だしが消えて屋台のみが残った。以後40〜50年後に上方よりカラクリ人形を移入することによって屋台は江戸形の単層から重層となり、その後50〜60年を経て文化、文政期(1804〜1830)には高山形ともいえる独特の形を作りだした。また、装飾として金具織物類を京都より求めているが、ことにそれが、著しくなるのは天保年間に入ってからである。
また、屋台が美しくなるにつれ、それを保護するため曳きかたが変わり、ことに回転を容易にするため戻し車を付けるという他に例のない方法を考えだした。
高山まつりの屋台は美しい。それはあらゆる形容をもって称えられているが、何故そのようになったか、高山の町衆の経済力が東西の文化を良く吸収していたこと、従って旧形や伝統にとらわれず、新しいものを求めたこと、またそれに答えうる、大工、塗師、彫刻師がいたことであり、他の組の屋台より美しくしようと互いに競いあったからであり、それをなしうる経済力を持っていたことである。春祭12台、秋祭11台が昭和35年6月全国にさきがけて国の重要民俗資料に指定され、次いで昭和54年祭行列、行事が国の無形民俗文化財に指定され、記念切手にも採用された。文書・写真:「高山祭の屋台」(社団法人 飛騨高山観光協会)より
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