

カラクリの歴史は古く、中国の史書では紀元前10世紀頃には既にあったと説いているのだが、それはどんなものであろうか。
わが国にカラクリが現われるようになったのは室町時代のことといわれているが、当時は貴族の鑑賞品であったようである。
このカラクリが庶民の手に渡ったのは近世以後のことである。そのことを早稲田大学教授・杉野橘太郎先生は、「カラクリ人形が表立って劇場の中へとり入れられた最も有名な例は竹田機関(からくり)座であるが、最初江戸にいた竹田近江は既に万治元年(1658)に子供の砂遊びにヒントを得たカラクリ人形を作り宮廷に献上して出雲掾(じょう)を受領したが、翌年近江掾を再受領し、カラクリ芝居の興行を思いたって大阪に出て寛文2年(1662)に道頓堀に竹田の芝居を創立した。………
大阪の名物とうたわれる程の大評判をとり……然し竹田座も永年の興行ではその種もつき、次第に人気も落ちて明和5年(1768)には閉座の止むなきに至った……大阪で消えたカラクリ人形が……山車の上に曳山カラクリとして残されていることは実に幸いといわなければならない……高山のものなどは往年のカラクリを偲ばせる貴重な資料……」と説かれている。
現在各地で行われているカラクリ形式には3種類がある。京都系統のもの、名古屋系統のもの、関東系統のものがそれで、高山のものは名古屋系統を引くものである。また、カラクリと演劇との関連形式にも3種類がある。それは、<1>芝居の一部に使用されるもの<2>カラクリだけで1つの劇を構成するもの<3>芝居とは関係なくカラクリの動きの面白さを示すものであるが、高山のカラクリは<3>に属する。
高山の屋台にカラクリが移入せられたのは、古くは享保から天明(1716〜1789)年代で、多くは文化、文政(1804〜1830)のことである。いずれも京都の人形細工師の手になるものと伝えられる。
現存して演技をしているのは三番叟、龍神台、石橋台、布袋台の4台だけで、他は人形が残っていても休演しているのは残念である。
4台に共通しているのは、殆ど同一形式ということである。屋台正面上段の高欄の間を、箱型の9尺余りの樋を突き出し、人形の綱は樋の中を通り、遠隔操作によって、前後進させたり、演技をさせる仕組で、その巧妙精緻さがすばらしい。
文書・写真:「高山祭りの屋台」(社団法人 飛騨高山観光協会)より



